マニアは何を言い出すのかわかったもんじゃありません。
ある映画マニアは、映画とは何か、何を以てして映画というか、という自問に対して「もちろん劇場で観る映画作品が映画である」と自信満々で答えます。
まあ確かに劇場で観る映画は画面もでかいし綺麗し音もでかくていいですね。場内も暗いし、見ず知らずの他の観客との共有感も良い。劇場鑑賞こそ映画。それはわかります。昔は劇場映画以外に映画なんてなかったんだしね。
しかしマニアたる所以はその後に続く言葉。「劇場鑑賞以外は映画と認めん」出た。「認めない」発言。そうですそうなんです。映画に限らず、マニアというのはすぐに認めたり認めなかったりします。そして好きなものに対して了見が狭くなる傾向があるんですね。普通に考えればマニアだったら了見は広くなってしかるべきなのに。でもほとんどマニア化するということは了見が狭くなるという特徴を伴います。
さて人の悪口はいいとして、では自分はどうなのかというと、認めるとか認めないとかはないけど、自分にとって「ここまでは映画を観たと言える」「ここからは言えない」と、やはり思っていることがあって、やばい、マニアの世界に片足つっこんでるわ、て感じです。
例えば昔テレビを観ていた頃は深夜映画が好きで、予備知識0で見始める映画の面白さは格別でした。で、そういう中で特に気に入った映画があったとしましょう。あぁおもしろかった、良い映画を観たなぁ、で終わるかというとそうではなく「面白い映画を観たからちゃんと見直そう」と、後日見直したりするんですね。
この「ちゃんと見直そう」が曲者で、自分の中で「テレビ画面でCMカットだらけで、場合によっては吹き替えで」観た作品を「ちゃんとした映画」と思っていない証拠だったりします。がーん。マニアっぽい。
今ではテレビどころか、パソコンや携帯のちっこいウインドウやなんかでも映画作品が観られていて、メイン画面の後ろでちょろっと流してたり、酷い奴になるとつらつらと飛ばしながらダイジェスト的にポイントだけ押さえる見方をしていたりするそうです。喉のあたりまで「認めん!」と込み上げます。でも認めない発言だけはすまいと我慢します。我慢してても思ってるなら同じだと言われればそれまでだけど、そこは最後の一線として。
そういう状況を鑑みてグリーナウェイは「映画なんて過去の娯楽。もう終わってる。続くとすれば、構成も尺も携帯画面を前提にでもするこった」なんて毒も吐いてます。
iPodサイズで飛ばしながら見るようなお手軽ムービーも映画の一つの進む道、パラダイムのシフトかもしれないんです。
同じ娯楽が同じ方法で長く続くとファンが固定化して少数先鋭となり、その結果マニアを生み、一般人とかけ離れた常識に囚われ、認めたり認めなかったりする世界が現れます。
演劇やライブハウスの音楽なんかもそうです。古典芸能の枠になってしまうんですよ。
例えば今、普通の人がぶらりとライブハウスに行きますか?私が高校生の頃なんかは普通にメジャーな遊びとしてライブハウスに行く習慣があったんですが、今時そんなことはありません。そもそもライブハウスというものがほとんどありません。で、今でもそういう遊びに固執してる人たちが「ライブハウスとは」とやりはじめ、酷いのになると「~は認めん」「いや認める」と議論になったりします。
そっちに関してはマニアかどうかはともかく私は当事者なので感覚がちょっと違うというかマニア以上に質が悪いのは確実で、それは話し始めると長いので割愛。
と、あれれ?映画の視聴環境の話をしようと思ってたのに話が逸れてしまいました。
視聴環境の話はまた今度。
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この話、なんとなく映画原体験に続きました。
ご存知、映画を観ながらついウトウトしてしまったり、観てもすぐタイトルや内容も忘れ、同じビデオ(DVDなかった頃)を借りてしまい、観始めてある程度時間が経たないと同じものを借りたなんて気付かない事がよくある私は、マニアの方にとってはどんな存在なのでしょうね。
私も観たの忘れてまたレンタルして、40分後に「あれ?これ観たぞ」って思うことが何度かありました。
逆に、一度しか観てないのに細部まで鮮明に覚えてるのとかもあったりして。
マニアなんかにならなくてもいいですよねー。