BaBanensについて

BaBanensとは

BaBanensというのが何かというと、20世紀末頃にしこしこと作ってたくだらない妖精たちとその設定です。 BaBanensが何であるか、制作秘話的に(そんな大したものか)多角的にご説明します。

物の形

物の形を輪郭で捉えることの困難さあるいは無意味さあるいは凄さについて、絵を描く立場からずーっとあれこれ考えていました。輪郭の美しさだけを目指してひたすら線ばかりを描いていた時期もあります。そういう真面目な美術的アプローチに疲れが出てきた頃、ヤケクソみたいな感じで始めたのが、Photoshopの選択範囲を一筆書きで適当に描いて中を適当に塗るというくだらない遊びです。散々輪郭と線の美しさを突き詰めたあとに行った子供の落書き的出鱈目さとオートマティスムの実践を兼ね備えた実験的遊戯であるとも言えますが、実際はただの間抜け状態での落書きに過ぎません。ババネンズの妖精たちはこうして生まれました。

カワキモ

昨今「キモカワ」というのがあるそうです。一見キモいが実は可愛いというイラストやデザインのことですね。ババネンズは逆です。一見可愛い物を描いてそうですが実はキモいのです。

目が死んだ魚

ババネンズの妖精たちの目は死んだ魚の目です。これが共通点です。これがキモさの砦です。 この死んだ魚の目はかなり昔から描いているものの一つです。もともとは死んだ魚というよりも鳥の不気味な目が好きだったんで、死んだ魚という常套句を使わなくてよいのであれば、実際は鳥の目です。 鳥に惹かれたのは小学生の頃妹が死んだときに鳥が現れたからですね、これを名付けてロプロプ…(冗談です)

世界

BaBanensは妖精たちですが、妖精の世界というものを構築して遊びます。世界の構築ってのは楽しい遊びで、その遊びの究極にある物語が「百年の孤独」です。そういうわけで、明らかにマコンドや、あるいはヴァーミリオン・サンズといった世界の構築を真似したくてBaBanensの住処である森を思いつきました。 BaBanensの森には物語があり歴史があり、誕生から滅びまでの記憶があります。これらを語るには長い年月が掛かる上に語りの実力が必要ですから諦めます。かわりに断片だけを記そうとしました。

偏在

世界が何であるかという問いへの答えの一つが外部を包み込んだ内面であるということです。世界は精神内部つまり内宇宙のことで、これが外宇宙をどう認識するかという話にすぎません。 そんなわけであらゆる制約を取っ払うことが出来ます。つまり空間的制約や時間的制約から自由になれるということです。時間が空間的特徴を伴っているとすれば、そして空間が距離という幻をうち捨てることが出来るなら、偏在に不可思議さなどありません。今日死んだ人は昨日生きていた。昨日ならいつでも会える。そういうポジティブな考えにも不自由しなくなります。

個人的に、詩が苦手です。これは昔からそうで、どうしても小説や普通の文章などに惹かれ、詩に魅力を感じませんでした。しかしブルトンやアルトーやエリュアールはじめ、ピーナッツの翻訳や浪花節、音楽の歌詞など、餓鬼のころから詩や詩人に影響を受けまくっているので、これは自分で納得しかねます。 だから必死になって詩を読んだ時期もありました。好きにならねばならぬと強迫神経症的に詩に挑みました。やがてそれも疲れ、大人になって「やっぱり詩はわからんかった」とうなだれます。 しかし不思議なことに、私の文章を気に入ってくれる人が時々いて、そういうひとたちが口を揃えて「詩のようだ」「詩が好きなんですね」などと言うんです。これは驚きです。一体全体、どういうことでしょう。意味がわかりません。 という詩の葛藤があったものですから、BaBanensでは居直って「詩」を書くことにしたのです。BaBanensのあれは、詩なのですよ。知ってました? 結論として、詩はやっぱり苦手でした。だからやっぱりこれは詩ではなくテキストです。

リズム

さきほど、文章を気に入った人が「詩のようだ」と褒めてくれる話ですが、その答えをすでに知っています。彼女たちが言う詩のように感じる部分とは、私にとってのたぶんリズムのことです。文章の何が大事ってリズムです。踊るように綴ります。時に綴りを間違えます。つまりテキストの基本は音楽です。ここまで共通点がありながら、やはり詩ではないのですね。不思議ですがそうなのです。 ところで絵はテキストのように綴ります。かなり理屈張っていますし文法などもあったりします。乱暴に描きながらも、その根底には技法としてのルールがあります。 そうなると音楽ですが、これはもちろん絵のように描きます。これがBaBanensの寄り添ったgoofという曲の基となる考えです。

絵はテキストのように、テキストは音楽のように、音楽は絵のように、みんな大好き三位一体です。

妖精

一神教ではなく、精霊信仰です。万能の神様が全てを司っているのではなく、万物に精霊が宿っているという、そういう考え方は日本人にもお馴染みです。唯一神は矛盾を抱えています。例えば「神は全能であるか、それとも善であるか」というような答えに窮する矛盾をなかなか解決できません。妖精は世界に関与せず唯そこにあるダーザインとしての存在、そういうピュアさを伴います。

森の魅力については今更語る必要などございません、みなさんがよくご存じの森の魅力です。森には熊や蜂やキノコや熊笹や妖精や妖怪や魑魅魍魎などいろいろおりまして、森は時間を包み込む魔力も持っています。

BaBanens

BaBanensという名前ですが、ここで冷静にネタを割っておきます。もちろんダリの「BaBaouo」からいただいています。ずっと前、展覧会で見た「BaBaoUo」(自転車に乗った人たちの立体作品のほうです)の、その語感といい文字の姿といい配置といい、惚れ込んでしまいました。
今となってはダリは好きではありませんが、幼少期に決定的で絶大な影響を受けたことは否定しようがありません。

20世紀

さてここからさらにシステマチックな話になります。

つい先日のある日、大事なフォルダがなくなっていることに気づきまして、作品が入っているフォルダがまるごとなくなっているんですね。その「アート」フォルダ以下には、仕事やデジカメ写真以外のすべてのアートワークが入っていました。言わば個人史的(コンピュータ上での)全作品です。これがない。どこにもないんです。初めてMac買って初めてPhotoshopとPainter買って以来の、20数年間の作品群です。もちろん途中途中いろいろ失っていますが、親フォルダ以下なにもかもなくなったのは実に見事です。いつからないのかすらわかりません。TimeMachineでも全くさかのぼれませんでした(この経緯はDigitalBooに書いた) 幸か不幸か、20世紀にはTimeMachineがありませんから、ときどき部分的にDVDにバックアップ取っていました。これが功を奏し、DVDで残された20世紀のファイルだけ、サルベージすることができたわけです。21世紀のある時期からこっちはTimeMachineやHDDに頼りきりだったせいで、他のバックアップがありませんでした。 そんなわけで失ったもののうち、20世紀末の退廃作品までは救われたのです。その代表的なのがBaBanensでした。大袈裟に言うならば、個人CG史的には、20世紀のBaBanensが私の最後の作品なわけです。

技術的見地

web上の以前作ったBaBanensは生きています。これをそのまま移行してもよかったんですが問題もありました。iPhoneなどの台頭で、ムービーとテキストと画像の合わせ技が難しくなってしまったんです。 具体的に言うと、まず額縁の画像があって、その中にループするムービーファイルの妖精がいます。その下にテキストが入る構成ですが、これをiPhoneで見ると、まずレスポンシブに作っていないため一望すると文字が読めず、文字を読むと絵が見えません。しかも、ムービーファイルがhtml上で共存できません。ムービーファイルは制止したままで、クリックすると別ウインドウでムービーだけが再生されてしまいます。 ですので、今更時代遅れのGifアニメに変換して、そんでもってレスポンシブに対応できるコンテナの配置を目論みました。 その際に知ったんですけど、同じような目的でGifアニメが再評価されているというか、流行ってるらしいんですよ。やっぱりな。Flashは論外、でもページ上にシームレスにムービーを置きたい、となればGifアニメが最適なわけです。 というわけで、以前ムービーファイルだったものをせっせとGif化して、こうしてこの時代にまたわざわざBaBanensを作ってみたという、そういうお話でした。

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