始まりと終わり

始まりと終わり その3

10年の歳月をすっ飛ばすのも何なので、まだ少し歴史を遡って履歴を記しておこう。

「単体アメーバ」騒ぎのずっと後、チルド結成当時はほとんど誰も認知していなかったフリーインプロ系の変な音楽もやっとのこと世に認められ始めた。というのも、東京でライブをやったときの反応がだんだん良好になってきたのである。

同系統のバンドが増えてきたのも原因の一つだ。同時発生的にそういう音楽が目立ち始めた時期だった。思ひで波止場、ルインズ、グランドゼロ大友良英、広瀬淳二といった一級品の音楽家と共演する機会も増え、それはそれで一つのムーブメントだったのではないかという気がする。世代が上のヒカシューにもお相手していただいた。ドイツに紹介してくれたのもヒカシュー。気に入ってくれてありがたや。

関西からひと足遅れてインディーズブームが東京で起こり始めた時期であり、親切な人がCDを作ってくれたりした。

Phewのバックバンドとしてあちらこちら出演していた頃は、映像関係や別の意味でのインプロヴィゼーションの人たちとも交流があり、今思えばまことにもったいないことながら、実はバンマスがチルドとしての楽曲に飽きはじめていた頃でもある。ひとつには、そもそもチルドのやり方は前衛的なものとして考えたものなので、カテゴライズされたりジャンルとして定着してしまうと意味をなくしてしまう。実はボロが出るだけとも言えるが。それにそろそろ関西インディーズのおいしいとこ取りであるところのモダンチョキチョキズが目立ち始めたおかげで、バンドマンが忙しくなってきたこともあり、ぼちぼち終わりに近づいていた。

法政大学でのチルドライブで、実質最後にしようと思ったバンマスは「法政大学初めまして。ではさようなら」ということで円満解散。その後、バンマス個人は大物メンバーによる「コブラ」に参加したが、とにかくチルドは解散、ホソイひとりでのセッションやソロだけの活動になった。いや活動なんかしてないな。忙しくなってきたので仕事ばかりしていた。家庭も忙しかった。それ以外は「電脳筒井線」以降ハマり始めた新しいコミュニケーションに夢中で、普段音楽を聴くことすらしなくなっていたのである。

そもそも音楽以前に単なる表現者にすぎなかったバンマスにとっては、音楽以外の表現方法に夢中になればそれはそれで満足、まことにいい加減なものである。何にでも首をつっこみたがる癖のせいで筒井康隆のファンクラブのようなところに出入りし始め、そこで生方則孝や荻窪圭などと知りあった。魅力的な世界だったので、性格的にその世界から遠く離れるかまたはその世界の中心に近づくしかない。もちろん中心に近づいた。そのため、新参者にも関わらず有馬温泉での一大イベントに積極参加、先にも描いた通り、筒井、生方、ホソイのトリオでスタンダードを演奏するというおかしなことになったのである。好青年であるホソイであるがその内心はおれがおれがおれがおれがおれがおれがの馬鹿者なのである。結果はまあとにかく面白いことになり、Mugwai、そののちのDigitalBooへと遊びは続いた。

つづくかも つづかないかも

…つづいた

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