夭逝の傍証

第七章 死の章

もうそろそろいいのではないかという内なる声に誘われた気がして、私は死んだ妻の思い出から抜け出す。死んだ家や死んだ街の幻影から抜け出す。しかし断じて幽霊などではない。幽霊とか幻想とかではなくて過去そのものだったのだろうと半ば確信しているのである。時間を空間の如く把握できてしまうとは我ながら大したものだ。過去などすぐそこにある。しかし未来はない。なぜならそれはまだ発生していないからだ。未来に目を向けようと愚か者は語るが未来はどこにもない。未来の在処が判った時はそれはすでに未来ではなく現在でありしかもすぐさま過去となるのだ。量産された過去は処理されることなく積み上げられ永久に存在し続ける。現に私はライフル銃で自殺した人間である。私はすでに過去の存在であり未来などない。オーケー。未来がないという点で生と死に何ら違いはない。つまり、「ただそこに無い」だ、現に存在せず過去にのみ生き続ける言わば過去存在である。ラジャー。挑戦とはこのことだ。死んだ人間の過去を含めた存在自体を消し去ることこそ理想の死だ。真の死であり完全なる自殺である。今度は死んだ自分から抜け出すために私という過去存在が息絶えるべきなのだ。みんな待ってろ。三途の川の渡し船はどこだ。船頭のかけ声が聞こえる。ほいさほいさ。どうだ。これが死だ。
そして私は息絶えた。

しばらくして少し生き返った。
煙草をゆっくりと吸い、ええと、灰皿灰皿、と辺りを見渡すとそこは荒れた大地。なんだここは。と少し馬鹿馬鹿しくなって再び目を閉じ死を待つ。死んでいたのに生き返るとは情けない。せっかく楽しい気分で死ねたのに荒れた大地の夢など見たくはないものである。ぶつぶつ小言をいいながら再び息絶えた。

しばらくするとまた少し生き返った。今度は銭湯にいた。湯気であまり見えないがどうやら混浴の銭湯である。そういえば子供の頃から銭湯には天国のイメージがあった。湯気で霞む白い空間、高い天井、反響音、天窓から見える夜空、体中が暖まる温度。裸の世界。温く緩い夢の国、それが銭湯だ。そうすると、さしずめ脱衣所は天国の入り口ということだな。番台は閻魔大王、大きな鏡は反芻する人生、脱衣籠を入れる大きな棚は。

大きな棚は。宇宙の。

わかった。と叫ぶか叫ばないかの微妙なところでまたもや息絶えた。深淵が。

また少し生き返った。どのくらいの時間死んでいたのか定かではないがその気になればいつでも妻の。

子供の私に老人が星空を指さし「ほら、宇宙が棚で出来ているのが見えるだろう」と、にこやかに。

核戦争後の世界では人はうさぎで、一人分の穴を掘って隠れ住み、点在している。「いやあれは核戦争じゃなくて」「ただの核」「じわじわとね」「どろどろとね」閃光。
「」
今はどっちだろう。今動く筋肉はこことここか。ここは動かないな。ここは。ここも動かないな。脳のこのあたりは。
死んでいる。いや。今また少し生きかえ。

気持ちの森林っていうか。

うさぎが。

おいおい。もうちょっと待ってくれよ。まだほら。考えてんだからさ。時々死んでるみたいだけど。死んだり生き返ったりしてるからまとまりないんだけどね。ちょっと待てったら。誰だこいつら。あ。持って行きやがった。そんなことされちゃ死んじまうよな。誰だって。まいったなあ。
あ。もう死んだ。死ぬ死ぬ。

意味があるかどうか?意味を与えればその時意味が生まれるそれを存在と言うんだってば。死が生を内包したって構わないよ。決めるのはもうご免だから。何かを決定したらまた何かが新たに発生してしまって拭っても拭っても落ちぬわ。
まあそれで良かったんだけどね。