夭逝の傍証

第六章 妻の章

賢者面をした妻はいつまで待っても現れなかった。すでに私が賢者を必要としていないからであろう。しかし待っているのに現れないとは不届きな妻である。私は時間を持て余し、仕方がないので米を洗って夕飯の支度を始めた。
近頃の炊飯器は水さえ定量を入れれば自動で炊けるのだそうだ。しかしその自動と引き替えにいったい何人の犠牲者が出たことだろうか。出なかったのだろうか。それはよくわからない。などと馬鹿なことを考えていると外に豆腐売りの声。豆腐売りとは懐かしい。今でもこのように豆腐を売りに来るのかそうかいつもは会社にいるから知らないだけなのだ夕方になると豆腐を売りに来るのだ豆腐を買おう。
鍋を持って表に出る。夕焼けのふもとに麦藁帽をかぶった豆腐屋。声をかけ、豆腐と油揚げを買う。安い。安くて旨いとはこのことだ。豆腐の入った鍋を持ったまま私はその場にしばし佇んだ。まろやかな町内の夕方を満喫する。各家庭からそれぞれの夕飯の臭いがした。学童たちが走り過ぎた。カラスがカーと鳴いた。そして私は鍋を持って家に入った。
家の様子が先ほどと少し違っている。台所に妻が立っていた。
「おかえり」と振り向く。
「ただいま」私は豆腐の入った鍋を妻に見られないようにそっと戸棚の後ろに隠し、ソファに腰掛けた。
妻は嬉々として夕飯の準備をしている。
「今日は早く帰ってきたのね」とビールを出しながら言った。
「たまにはね」私はわざとらしくビールを飲んだ。
部屋中の空飛ぶ円盤が大きくうねりだした。
私は妻に近づいた。「なんだか、久しぶりに会ったような気がするよ」
妻は困った顔をして言った。「あらまあ。そうなの。変ね」
話題をさけているぞ。私はわくわくしながら言った。「君の元気な姿を見るのは久しぶりだ」
何を言っているかしら、と言いたげな目を向ける。だがもちろん何を言っているのか判っている筈だ。「私もあなたの元気な姿を見て嬉しいわ」仕方なく妻はそう答えた。
これ以上会話を続けると状況説明になってしまうと危惧した私はビールを飲み干して立ち上がった。「ちょっと煙草でも買ってくるよ」
妻は手を休めて私を見た。
「ついでに玉子を買ってきて」
妻の最期の言葉を思い出す。