4 第三の笛
居間で老人が猫に語りかけていた。
「それでな、わしは慌てて小学校へ走った。飛行機が墜落しててな、煙がもうもうと立ちこめておった。あたり一面、死体だらけじゃ。それでもわしは肉の中から肉親の欠片を見つけようと無我夢中で」
「こんなこともあったな。レストランの厨房で働いていた頃じゃ。同僚の頭をな、こう後ろから冗談でどついたらな、同僚は練っていたハンバーグの中に頭をつっこんでボールが割れ頭も割れて脳味噌とハンバーグが混ざってしもてな、後で選り分けるのが大変で」
「わしが牧師をしていた頃じゃ。わしの説教の日にはわしの後ろのスクリーンに映画がかかっていたんじゃが、わし自身は説教があるので振り向いて見ることができん。みんなは見とるわけやな、わしはその映画が見とうて見とうて仕方なかったんじゃが」
このように、老人は毎日ふたりの猫に語りかけていた。
「この人いつもここにいるけど、誰なん?」老人を見上げてとめがみっけに言った。
「知らん人やな」みっけが老人を見つめながら答えた。「いつも何か鳴いてるな。変な鳴き声やな」
「昨日もこの人いたっけ」
「さあ。昨日って何やった?」
「何やろ。昨日って」
「さあ」
「さあ」
老人が手に餌を乗せるととめが歓喜の声を上げた。「わあ。手からご飯や」とめは老人の手から餌をむさぼり食った。
「私は御免やわ。手からご飯なんて」みっけは素知らぬ顔で高いところに昇り、とめの様子をじっと見つめる。
「因果応報いう言葉があってな」老人が猫に語りかける。「結果には原因があるちゅうことやで」
「とめ、付き合いきれんから寝るで」
「寝よ寝よ」二人は箱に入り身を寄せ合って寝る。
老人も仕方なしにうとうとし始める。最近は夢を記憶することもめっきり減ってしまった。しかし記憶はせずとも夢は現れる。
二度目のアマリリスの精を呼び出してから長い年月が経っていた。残る機会はあと一度だけだ。残り一度となればおいそれと吹くわけにはいかない。吹けばそれで終わりということだ。こうして最後の一回をケチくさく我慢したせいで、おれ様はすっかり年を取り、年を取りすぎて死んでしまった。人間いつか死ぬのだ。昔ならいざ知らず、特に感慨もないのだ。しかし死んでから笛を吹いていないことに気づいた。
「しまった。こんなことなら、もう一度吹いておくんだった」おれ様としてはこのしくじりは不本意であった。
極楽の蓮池の縁に腰掛け、紫陽花の隙間からこちらをじっと見つめるみっけに話しかけた。
「やあ。こんなところに。ひさぶりやな、みっけ」みっけはおれ様の悪巧みを何とか見抜こうと油断なく見つめている。
「あれから何十年も経ったとは思えんな。せやけど、何十年ちゅうても、ついこないだみたいなもんやな」
「ほんまやな」仕方なく油断せぬようにみっけが答える。「ついこないだみたいなもんやな」極楽にいるのだから、もう会話が成り立つのである。
「話の筋としてはやな、最も愚かなタイミングで三度目の笛を吹くのが、これが正統派や。この小説は最初から煩悩の根源である三毒に沿った形で進んでいるからな。貪欲、瞋恚とくればあとは愚痴や。そやろ」
「そやな。それが順当やな」
「しかしそうはいかんのじゃ」
みっけは一瞬ひるむが、気を取りなして「そうもいかへんな」と適当に答える。
「ここは極楽浄土やからな。蓮や紫陽花はあってもアマリリスが見あたらん。タイミングが悪いんじゃな。そこが残念じゃ」
「何を青臭いこと愚痴愚痴言うとんねん」ついにみっけが切れた。「愚かなタイミングだ?それは今じゃ。笛貸せ。あたしが吹いたるわ」吹いた。
ぴーっと笛が鳴り、白煙と共にアリスが現れた。
「呼んだのね。アリスを」
「出たっ」
その叫び声に驚いて思わず覚醒。案の定時間が遡り、老人は普通におれ様となりここは家でご来訪中のアリスと一緒にいるアリスの倅もすでに小学生である。おれ様もみっけも極楽から帰還し、煩悩の根源を大まかに克服したことをすでに承知している。
アリスの倅がテレビの前に座って言った。「ゲームしていい?」
「ええよ。何でもやってええよ」ゲームには自信があるおれ様が大らかに答える。
「これ何のゲーム?これやっていい?」
「どうぞどうぞ。やってみ。ちょっと難しいかもな」
倅は必死でゲームに取り組み、アリスとおれ様は軽い世間話に花を咲かせるのであった。気づけば倅がコントローラー片手に涙を浮かべている。思うように出来ないのが悔しいらしい。倅よ。その悔しさを忘れるな。根性で乗り切れ。
その後しばし時が流れ、倅から電話がかかってきた時に父ちゃんは喜んだ。「倅よ。おれのことを父ちゃんと呼んでくれ。だがな、おれはお前の父ちゃんではないのだ」
「ちょっとゲームのことで聞きたいことが」
「なになにどんなこと」
こうして倅は根性と知性で難しいゲームをクリアし、後にステージデビューも果たした。
アリスがしみじみと語った。「長いながい時間が経ったわね。あなたの新しい人生の始まりを祝して、Nintendo DSを贈ります」アリスのプレゼントを受け取り、おれ様の目はまん丸になった。
「三度の笛は三人の精霊。三度の飯より三度笠。すでに長い付き合いになってしまった私と物語には直接登場していない仲間の精霊たちからのこのプレゼントは煩悩を断ち切りません。断つのではなく、それを踏まえて悟りを見出せばいいんです」
「その通り。無駄と非合理こそエコロジー」あふれる涙を拭いもせずにおれ様は叫んだ。「駄目人間万歳」