3 第二の笛
「おれのことを大佐と呼べ」
軍人に化けながらもその実態は左翼活動家のスパイであるおれ様は一同を眺め回して叫んだ。「そして大佐、手紙が来ませんと言え。わかったか」一同ぽかんと聞いている。いかん。このままでは偽軍人ということがバレてしまう。偽物だとバレると銃殺間違いなしだ。
これまでに何人もの仲間を失った。皆、夢の中で真実を語ったために正体がバレて殺されたのである。
戦争とはおぞましいものだ。国家レベルでは単なる公共事業だが、現場では死が続出だ。現場は御免だ。これ以上誰かが死ぬのは御免だ。たとえ敵でもだ。たとえ夢でもだ。
おれ様の傲慢はそろそろピークに達していた。死への恐怖心を怒りに置き換えていただけなのは明白で、幼児の駄々と同じで、それは瞋恚だ。
「大佐」一人の兵士が言った。「瞋恚大佐」
「その名を呼ぶな。大佐だけでいいんだ。何だ」
「瞋恚大佐、そろそろお目覚めでごんす」
「何を言っとるか貴様」
「いやだから瞋恚大佐、もう昼でごんす」
「うわ昼やがな」
飛び起きたらもうとっくに午後を回っていた。またすっぽかしたか。この怠惰な阿呆の暮らしは何事だ。
そう。この頃の怠惰で狂った生活は、人を痛めつけた罰なのである。
最初の笛からどれほどの時間が流れたかと思いきや、全然流れてないに等しいのは、これもひとつの罰であるからに相違ない。瞋恚に任せて荒れ狂ったあげく他人を痛めつけ、その他人の痛みより己の苦痛のほうを大きく感じるとは最低最悪の自己中人間であり、言わば他人からの迷惑に敏感で自分からの迷惑には鈍感な嫌煙の連中と何ら変わることのないファシストの変態である。
ええいくそ。と、己の瞋恚がまだ理解し切れていない瞋恚ちゃんは祇園のキャバレーで今日も豪遊だ。
「瞋さ〜んおひさしぶり」「瞋さん」「しんちゃん今日は帰さないわよ」
「その名を呼ぶなって。お。とめこにみけこ。今日も可愛いのう。手からご飯か。よしよし。げへへへ」
その様を遠くからずっと眺めていた私は見るに見かねてアマリリスの精から預かった笛を取り出した。
「あっ。その笛は」瞋恚大佐はこちらを見上げて叫んだ。「その笛を吹くな。その笛を今吹かれるとやばい。よせ」だが私はお構いなしに笛を吹いた。
ぴーっと笛が鳴り、白煙と共にアリスが現れた。
「呼んだのね。アリスを」
アリスはキャバレー内をゆっくり見渡し、最後に瞋恚大佐を睨みつけた。「ださ」
瞋恚大佐は這いつくばった。「いやあのその」
「お黙り」アリスは土下座する瞋恚大佐の頭を踏みつけた。「あんたはどうしようもない駄目人間。屑。気違い」しかし足の下で 瞋恚大佐が喜んでいることを発見した。「うわ。こいつ、喜んでるわ。マゾ。変態」
私は居ても立ってもいられなくなり、アリスの前に躍り出た。「すんません。すぐ片づけますよって」瞋恚大佐を踏みつけてバラバラにし、箒で掃いてチリトリに集め、屑籠に放り込みながら私はアリスに「すんません、すんません」と謝り続けた。
アリスは地獄の底からの明るい笑顔で答えた。「あはは。2度目の笛を吹いたのね」
「お久しぶりで」私はなるべく紳士的に御挨拶した。
こうして悪夢の中で瞋恚は一掃された。