三度の笛

2 最初の笛

 乳母車を転がしながら駅を出て空を見上げると、今しがた飛び立った飛行機が山の麓の小学校の校庭に墜落するのが見えた。
 地響きがして、黒煙が舞い上がった。
「落ちた」「落ちた」人々が騒ぎ出した。
 飛行機の破片と人間の破片が空から降ってきていた。おれ様は急いで小学校に向かった。そこはまばゆいばかりの一面の死体景色。
 まだ時おりぼとりぼとりと人間の破片が空から落ちてくるのを幼児の姿で巧みに避けながらあちこちの死体に駆けよって母親を探すものの、もはやただの肉しか見あたらず、母親の死は確実と思われた。
 校庭の肉をかき分けているおれ様の肩に誰かが触れたので振り返ると母親が立っているので驚いた。「うわ。生きてたんかいな」
 母親は怪我一つない様子でにこやかに佇んでいる。「偶然、助かったわ」
 どんな偶然やねんと答えようとしたときに、母親の首が少し伸びていることを発見した。伸び、そして少し傾いていた。その首どないした、と声に出す前にためらったのは、それを告げた途端に彼女は自覚して死ぬのではないかと判断したからだ。
 首の長い母親との対話に耐えられず、おれ様は夢の世界から現実へと舞い戻るため、兼ねてから用意しておいた笛をくわえ、満身の力を込めて息を吹き込んだ。
 ぴーっと笛が鳴き、白煙と共にアリスが現れた。
「呼んだのね。アリスを」アリスは乳母車のおれ様をのぞき込んだ。「ちびっ子のフリをしても無駄。幼児プレイに興味もない癖に」

 アリスと始めて出会ったのが不良として街を彷徨うようになってからか、子供のころか、あるいは生まれる前か定かではない。少なくとも小学校に飛行機が墜落したときより以前なのは間違いないのだが、墜落事故がいつ起こったのかは明確ではない。五条新町に汽車が走っていた頃かもしれないし、大雨で丸物百貨店が浸水したあのときか、はたまた天ぷらの揚げ方が元で社長と喧嘩して店をクビになったあのころか、拾得か磔磔かdee-Bee’sかサーカスかCBGBか。何しろ気がつけばアリスはそこにいた。ような気がする。

「私に会いたいときはこの笛を吹きなさい。ただし吹けるのは三度まで」
 アリスが笛を手渡し、白煙の中に消えて一輪のアマリリスに吸い込まれる姿を見守る水兵服に身を包んだ乳幼児のおれ様。
「おねえたん。おねえたんは誰なの。朝顔の精なの」
 もう一度白煙が立ちアリスが現れた「あほ。朝顔ちゃう。アマリリスや」そして消えた。

 こうして笛を手に入れ、最初の笛を夢の中で吹いてアリスは再び現れたのだ。
「幻覚の中で退行現象を起こして思わず笛を吹くとは、あんた、わりと情けないわね」
 アリスは言った。「そういえばこんな事があったわ」アリスは語った。「朝5時に家に帰ったら、玄関の前にお母さんが立って待ってるのよ。私びっくりして」
「ずっと待ってたの?」乳母車からよいしょと降りたって年相応の不良少年に化けたおれ様がアリスに聞き返した。
「違う。そろそろ帰ってくると分かったので玄関に出たところだって」
「そりゃ凄い」
 幻覚と夢と幽霊と空飛ぶ円盤に日夜苦しめられていた年若き不良少年に化けたおれ様は心底感動した。子を思う親の気持ちは物理を越える。そういえばうちの猫(とめとみっけ)も、飼い主が帰ってくるのを察知して玄関で待つではないか。ああいう能力は人間にだってちゃんとあるのだ。
 アリスとの他愛もない会話そのものが、破壊された人間性を取り戻すために必要不可欠なものとして若年不良少年に化けたおれ様に機能した。
 最初の笛を吹いたのがこの夢の中でよかった。後になって思ったものだ。最初の笛で現れたアマリリスの精霊は、貪欲に身を沈めていた若年性不良少年おれ様の最初の死を救ったのだ。