第一章 オフィスの章
「もう死ぬ以外ないな」
突然、思考の罠から抜け出し結論を出したのである。
私は書類の束を投げ出し、自分のロッカーから兼ねてより用意しておいたライフル銃を取り出した。
銃口をみぞおちに押しつけ、両膝を開いて中腰になり切腹の体勢をとった。やはりここは腹を打ち抜かなければならぬ。
向かいの席に座っている営業部長が驚いてこちらを見て言った。「君、何をしてるんだ。ライフル銃など構えて。まだ就業時間中じゃないか」
「部長。私は死にます。さようなら」就業時間中だろうが何だろうが今から死ぬ人間にはそんなことはどうでもよいのである。
他の社員も私の様子を見て慌てだした。
ひと騒動起きそうなので私は急いで引き金を引いた。
ぱん。
衝撃で少しのけぞったが、気を取り直しもう一発。
ぱん。
腹に重い力が加わった。「うぬ」と呻いて私は体勢を整える。
女子社員が悲鳴を上げ、部長以下、他の数人の社員が駆け寄ってきた。「腹を撃ちやがった」同僚が驚いた顔で言った。「驚いた」
そうなのだ。その驚きが大事なのだ。
同僚よ。ひとつ賢くなったな。と、私は大きくうなずく。
牛乳を飲んだときのような異物感が腹に残っていたので、弾を詰め替えつつさらに二、三発撃ち込んだ。
私はぺたりと座り込み、死の訪れを待った。腹の中で数発の弾がうごめいているのを感じるが、まだ死のツボには届いていない。だがすでに内臓はぐちゃぐちゃに掻き回されている筈だ。時間の問題だ。
同僚たちは遠巻きに私を見つめて困惑していた。そのうち、一人のOLが受話器を取り救急車を呼ぶことを思いついた。
救急車か。病人じゃあるまいし。私は電話をしているOLを眺めながら、生が死を内包しない事実に気づいた。けがや病気は生が内包している生の状態だ。だが死は生の範疇にない。そうだ。死はすでに個人の歴史ではないのだ。
「もうすぐ救急車が来るからがんばって」と、電話をしていたOLが張り切って私に言った。「もちこたえるのよ」嬉しそうである。
「お嬢さん。それは無理だ。私は不可逆的な非存在に向かって猪突猛進中だ」
腹がごろごろと鳴った。肋骨がきしみ始めたから、死がかなり進行しているのだろう。
救急車が来た。自動車型ではなく、ヘリコプターだった。数人の救急隊員が窓を蹴破り、縄梯子を使ってオフィスに入ってきた。
「患者はあんたか」目つきの悪い隊員が私に気づき駆け寄ってきた。「これは駄目だな。もう死んでるよ」私の瞳孔を一目見て隊員は断言した。
もう死んでるだって?
何となく人にそう断言されると腹が立ってくる。「まだ生きてます」私は憤然と言った。だが言い訳めいて聞こえたかもしれない。「ふん」と隊員は鼻を鳴らし、吐き捨てるように言った。
「何だよ。まだ生きたいのかよ」
本来ならその言葉にがーんと衝撃を受けても良いのだが生憎そんなことにはならず、私はこの隊員の根性主義的な態度を軽蔑するのみだった。
他の隊員が私に回り込み、よいしょ、と担ぎ上げた。
縄梯子にくくりつけられながら、私は同僚の一人に声をかけた。「私のデスクのコンピュータに『遺言』があるからチェックしておいてくれ」
遺言ソフトは、起動すると登録してある「やばい書類」をまとめて消去してくれる秘密のプログラムである。
縄梯子に私をくくり終えた救急隊員たちがヘリコプターに乗り込んだ。私は吊されたままのようだ。
ヘリコプターがゆっくりと上昇する。
「行ってらっしゃい」「がんばれよ」と同僚たちが手を振った。